神の国を迎える            牧師 澤崎博美

   
 「…神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。  
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 (ルカによる福音書17章20〜21節)

 主イエスの時代イスラエルはローマの属国。ローマ帝国による支配で多額の税金が徴収された。人々はダビデ・ソロモン時代をなつかしんだ。それは地上的繁栄の色濃い神の国への期待。しかし神の国はこの世の繁栄ではない。また、神の国は国家という形ではない。キリスト教国といわれるアメリカ=(イコール)神の国ではない。更にいえば死んでからのことでもない。今の生活とかけ離れたところにあるのではない。ヘロデは立派な宮殿に住んでいた。しかし生まれたばかりのキリストを殺そうとする者の館は、どんなに立派でも寒々としており住むに耐えられない。主イエスの生まれた家畜小屋は住むのには最低限のところ。しかしそこは主イエスを受けいれ、主イエスを礼拝する人々に囲まれている。まさしくそこは神の国。神の国は主イエスとの人格的なふれあいで心の中にキリストをお迎えすること。神の国は実験室での客観的立場から見分けたり、見物
するものではない。どんな人であってもキリストを救い主として受けいれるならば、そこに神の国は誕生する。まず自分の心にキリストを迎え、ともし火をともしてもらおう。そのともし火を周りの人にも分かち合いたい。キリストを受け入れる人々の広がることを願おう。

 25節はキリストの苦しみ、十字架の受難の予告でもある。苦しみという言葉は情熱という意味をも併せ持つ。苦しみを受けるという覚悟は情熱そのもの。苦しみに耐えることは強烈な情熱を必要とする。
 棄てられるとは価値がないとして投げ捨てられること。主イエスはヒーローとして崇められない。その反対に苦しみ、排斥された。もし人間の価値を結婚したか、商売によって大もうけしたかで計られるならばキリストは要らなくなる。キリストご自身、娶ったり、子どもをもうけたり、商売の世界に生きなかった。衣食住のことや結婚、仕事は生きがいと深く関わる内容で大事なことである。しかし自分と人を比較して、あの人は自分よりもいい家に住んでいるとか、収入が多いとか、人との比較に生きるならばそれはむなしい。
 主イエスは私どものところにやって来られた。主イエスを受け入れるかどうか、主イエスと共にいかに生きるかが問われる。ある婦人が介護の相談に来た。私は世話をこんなにしている…との悩みの訴え。「世話をさせていただいている」という考えもありますよ…。とのひと言の助言によって教会に来るようになった。幸せの青い鳥を遠くに捜す必要はない。この世の厳しい現実から逃げるのではなく、厳しく辛い生活の中にキリスト迎え入れる者でありたい。神の国とは主イエス・キリストの国。主イエスに支えられ,慰められるところ。教会がそのような場となることを目指していこう。
                                             2018年1月 月報掲載