気を落とさずに           牧師 澤崎弘美

 

ルカによる福音書18章1〜8節
 「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、

彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」  (18章7節)

 

 

 ルカは祈りの重要さを強調している。祈りは呼吸にも譬えられている。祈りがなくなると生活に追われるだけ。神への思いは消えていき霊的命は干からびる。ここでは気を落とさずに絶えず祈ることを勧めている。祈りは訓練でもある。そのための譬が今日の箇所。ここは素直な祈りの勧めとは言いにくい。ひねりがくわえられている。このたとえ話が好きだという人はそういない。初心者向けではないということ。

 


 ここは信仰の歩みを何年も経験している人々への勧め。ひねりがあるのはそのため。ここに登場する裁判官に好意的な感情移入することはできない。こんな裁判官がいたら我々が困る。しかしお祈りをしてすぐに自分の思い通りになっていくという経験をどれだけもてるだろうか。思い通りにならないことのほうが多いかもしれない。祈りは楽しいとか、祈りは何でも聞かれるという状況下でない。何年も祈っているけれども神はちっとも聞いてくれないと思う人も世の中にはいる。もう願いを訴えるのをやめようと断念してしまった人も世の中にはいるかもしれない。すなわち、主イエスがここで語りかける相手は神様に対して、もやもやした感情を持っている人々。主イエスはそういう人へのアプローチに、このような譬を掲げられた。このやもめは自分の財産をだまし取られたのではないかとも想像できる。彼女は裁判官に私を守ってくださいと頼み込む。何度
も何度もひっきりなしに頼み込む。意地悪な裁判官でも終わりには、やもめに配慮した対応をするのだから、ましてや神は苦しんでいる人への希望と励ましを与えてくださる。「気を落とさずに」という言葉が重要で印象深い。

 

 

 語られた時期は受難週となるエルサレム入場の少し前。弟子たちは主イエスとともに苦楽をともにしている。しかしこれからはもっとも大きな十字架という苦難が待ち受けている。そのような弟子たちの今後の歩みを覚えてのたとえ。いつまでも、最後まで気を落とすことなく祈り続けなさいという勧め。

 

 

信仰生活が長くなればそれだけ形が整えられ穏やかな祈りになるのではないようだ。必死に祈るべき課題は生きている限り続くだろう。神様、何とかしてくださいという切なる祈りが求められる。そのような姿勢こそ尊い。

 

                                           2018年3月 月報掲載