子どもたちを主イエスのもとに     牧師 澤崎弘美

ルカによる福音書18章17節

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

決してそこに入ることはできない。」           (18章17節)

ここはイエス・キリストが幼児に対していかなる対応をされたかを示す。親が主イエスのもとに幼児を連れてきたのは主イエスの心にかなう喜ばれること。信仰教育は親の責任。子どもの自覚を待っていては遅すぎる。体の細胞に染み込むように信仰指導する必要がある。「触れていただく」とは手を子どもたちの頭において神の祝福をいただくため主イエスに祈ってもらうこと。この箇所は幼児洗礼への勧めのメッセージとして世々の教会に受けとめられてきた。

 


 小学生までは子どもは両親、特に母親の影響を受ける。祖父、祖母の影響も大きい。彼らが両親の行き届かない点をカバーする。子が親にしかられ祖父・祖母のところに逃げていけることは大事。自分の親にも親がいることは命のつながりを感じる体験となる。家族とされた摂理や神秘性を感じて欲しい。子どもは親を選べない。親の責任は大きい。小学校を越えると子もらは親の客観的状況を知るようになる。社会的地位、人間としての能力、個性等を知り尽くす。一緒に生活しているならば隠しようがない。親たるものは覚悟を決めて子どもの教育に当たりたい。良い本との出合い、様々な人との出会いも大事になる。親はそのような環境を設定する必要がある。最も大事なのは今日の聖書にあるように、子どもらを主イエスのところに連れてくること。

 

 

 この時代は女や子どもたちは一人前扱いされなかった。弟子たちは主イエスのところに幼子を連れてきた人々を拒絶し叱りつけた。幼児はキリストの話を理解できない。奉仕をすることもできない。彼らは役に立つ存在ではない。さらには子どもたちが騒いだり泣いたりするのを嫌った。良くいえば静かな雰囲気を保とうとした。キリストにまとわりついて、おんぶや抱っこをせがむようであるなら、キリストの威厳が損なわれると考えた。キリストは激しく怒られた。その激しさは周りの者が驚くほど。弟子たちの行動は間違っている。弟子たちの最大の過ちは幼児と主イエスの間の妨げとなったこと。 

 

 

 神の国は役に立つものの集まりではない。知識や実行力が求められるのではない。子どもたちは全面的に親に頼っている。親に信頼するしかない弱く無力な存在。神の国とは神様に全く頼りきっている人々の国。まったき信頼に生きる者こそ、神の国にふさわしい。「神様は弱い人がお好きなんだよ。神様しか頼るものがいない人が大好きなんだよ」という詩がある。天国とはまさしくそのような国。無力な者こそ神の国にふさわしい。主イエスは無力な人々を迎えられる。子どもたちを拒否することなく快く迎えて祝福された。キリストが子どもたちを祝福されたように、子どもたちが喜べる楽しい社会が築かれるように祈りたい。

                                            2018年5月  月報掲載