人をつまずかせない

                                    美浜教会   

 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」といってあなたのところに来るなら、許してやりなさい。」  ルカによる福音書17章4節

 この個所は弟子としての心得であり、教会のあり方等の実際的側面。主イエスの時代から教会のあり方は考えられてきた。当時のユダヤ教社会の中にあって、自分たちは彼らと生活の具体的面においてどこが違うかが問われていた。ユダヤ教の律法を守るべきかどうか。(食物規定等)守らないとクリスチャンになれないのか。異教社会の中にあっていかに信仰を守っていくべきか。信仰者としてどうあるべきか。教会生活のエキスをここから汲み取ることができる。

 まず、第1として取り上げられていることは、小さきものを躓かせないように気をつけなさいというメッセージ。人をつまずかせない。これは道路のでこぼこに躓くことからきている。さらには不可抗力なことではなく、躓かせるために罠を仕掛ける意味をも含む。ここでは自分の未熟さや弱さではなく、人をおとしめることが問題になっている。教会で人を躓かせるようなことがあったことを前提としている。問題となる「小さきものをつまずかせる」とは、幼児のことではない。小さきものとは洗礼を受けてまもない信者。試練や困難によって鍛えられていない者。神の民の中で軽視され、軽蔑されやすい人々のこと。人の心は有力者になびいてゆく。その力にあやかること、利用することを願いやすい。そうではなく小さい人々に目を留める、聞き洩らしがちな声に耳を傾ける、心を向けることが求められている。とても丁寧な配慮がなされている。精神科や内科の医師は手術担当の外科医師よりも患者との交流が求められる。ある人は、「心理療法の根本原則は害を与えないこと」。と言った。心理療法は絶対的有効性を誇れるところにきていない。「治療がうまくいかなくても良いから、患者を傷つけるな」を肝に銘じている。躓かせないは消極的な表現ではあるが、全てはそこから始まっていく。
                    

 3節の「戒めなさい」は怒って怒鳴るのではない。教会の目指すべきことは、主イエスが私共を赦して下さったように赦しに生きること。カトリックは注意事項を決めていった。プロテスタントはしてはならないことの一覧表を作るというようなことはしなかった。聖書に聞くという姿勢を貫いた。神への愛と人への尊敬と礼儀が合わさって教会秩序が形成されていった。主イエスは人々がぞんざいに扱われることを嫌われた。人をおとしめることは問題外のこと。もしそういうことをするというのならば、その人は首にひきうすをかけて海に投げ込まれるほうがましとまで語られた。この主イエスの心を、私共の心として歩んで生きたい。具体的には愛すること。大きなことではなく、ちょっとしたことの中に大きな愛をこめるものでありたい。

                                        2017年10月

月報記載