一粒ほどの信仰             牧師 澤崎博美

 

「・・・わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです。」
                                    (ルカによる福音書17章10節)

 

 使徒たちは主イエスに信仰を増してくださいと願っている。自分の才能のこと、お金のこと、健康のことへの願いが強く摘している。今の時代このような声があがることが大切なこと。しかし使徒たちが信仰を増してくださいと願い出たとき、主イエスはそうしてあげようとは言われなかった。使徒たちと主イエスとの間には信仰理解において微妙なずれがある。

信仰が増えるというとき、使徒たちは自分の財産が増えていくようなことを考えた。それはいつも自分中心であり、私という存在にこだわっている姿でもある。主イエスは使徒たちに対して、からし種一粒の信仰があれば大きな桑の実も動かすことができるだろうと語られた。文字とおりに受けとめて、その辺に生えている木に向かって別のところに植われといっても何の意味もない。主イエスの意図が正しく伝えられたか学者たちが疑問視するところ。伝言ゲームではないがその意図はだいぶ曲げられた可能性すらある。当時の弟子たちの存在は砂粒ほどの、からし種のように存在。桑の木は大木。しかし大木のようなユダヤ教対しても、決して引けをとらないという意味。

 

 主イエスは7節以降で一つの譬を語られた。ここは5~6節の話とつながっている。すなわち7節以降の譬の中に信仰を増すヒントがある。ここには、ひたすら主人の命令に従っていく僕が描かれている。日の暮れるまで畑で働いてきた僕はすぐに食事にありつけるのではなく、主人の夕食の準備をし、身なりをきちんとして給仕役をも担っている。それが当時の僕の務めであり、彼らは「しなければならないことをしただけ」と返事をしている。

 

 信仰を増すとは自分が人々から評価されることではない。お金を増やしていくようにいろいろな役職を増やしていくことではない。ある有名な牧師に委員長という役職がたくさん当てられた。業を煮やした奥さんは「そんなに長が好きならばちょうちょにでもなったら」という笑えない笑い話がある。“実ほど頭をたれる垂穂かな″の心境に至るのはきわめて難しい。自分を前面に出すのではなく、ひたすら主に仕える姿勢。謙遜に謙遜を重ねていくことが信仰を増すこと。キリストは私どもにとっての真の主人。その方が率先して謙遜の模範を示された。私共の信じる主イエスは横柄で倣慢でみない。私どもの足をも洗ってくださる方。そして私どものために血を流され十字架にかかられた方。キリストへの忠誠こそ、私どもに求められていること。山を動かすことや、木を動かすことではなく、主イエスに仕え、人々の中にあって謙遜の限りを尽くしていく。これこそ真の意味で信仰を増やすこと。

 

                                             2017年11月 月報掲載