キリストを証しする   牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書5章33~40節

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」   (5章39節)


 31節から39節の中に「証し」という言葉が11回出てくる。キーワードになっている。「証し」という言葉の意味は法廷における証言ということ。そこで重要なことは真実。聖書は主イエス・キリストを真実をこめて「証し」することに心を砕いている。当時の宗教指導者たちも熱心に聖書(旧約聖書)を研究していた。しかし中心を捉えていない。細かい律法の解釈に終わっていた。教会の集会案内に聖書研究と祈祷会という看板がよく出ている。学者ならばまだしも信仰者にとって聖書は研究するものだろうか。

 

 明治生まれのある牧師は教会員がとうとうと聖書の研究発表をするのを喜ばなかった。聖書の研究発表する姿の中に、調べるという気持ちが強くなっていることに危惧を感じられた。永遠の命に預かっている喜びを忘れたような聖書への接し方は良くない。聖書を知るということはあたかも薬の能書きを知っているように聖書の知識をたくさん持つことではない。命に必要な薬として栄養としていただくことが大事。

 

 聖書(旧約聖書)はキリストの到来を予言している。アブラハムがイサク犠牲として奉げようとした話はキリストの犠牲を暗示する。

 

 モーセが荒れ野で人々の病を癒すために竿の先に掲げた青銅の蛇はキリストの十字架の救いを指し示している。数多くの聖書の箇所がキリストの出現を預言している。聖書は創世記から始まり、イエス・キリストに向かって集中していく。聖書の中心は何かをしっかり受け止めなければならない。40節ではキリストを証しすることと明記してある。

 

 バプテスマのヨハネもキリストを指し示した。彼は画家によって描かれるとき、キリストを指差す人物として描かれる。彼の人差し指はひときわ長い。彼の指差した方が、キリストであることが明らかになるため。ヨハネには多くの弟子もいたことから、彼自身特別なカリスマを持っていた。しかしヨハネは自分にスポットライトが当てられることを求めなかった。ヨハネは自分の働きを救い主の露払いと自覚した。そのことに全生涯を費やした。自分の誉れを求めるのではなく、自らはキリストの靴の紐を解く値打ちもないものであると言い切った。彼はイエス・キリストのように義の太陽としてあがめられることを求めず、しばらくの間、燃えて輝くともし火であることに満足した。ヨハネのあかしが人々の心を捉えたのは、主イエスに対する明確なメッセージを持っていたから。同時に、らくだの毛衣といなごと蜜という食物に現れているように簡素な生活にあった。

 

 High thinking, low living.による証が真実ならしめた。

ヨハネは、すべての人々が神の恵みに与かれるように。キリストの命につながれるように訴えている。

 

                                       2023年10月 月報掲載 通巻221号