その栄光を見た  牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書1章14~18節

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」  (1章14節)


 14節の「言は肉体となって」は、キリストは人となられたという意味。人として生まれたということは、病気になったり心配事のためにくよくよしたり、眠れなくなるといった弱さを思いやるためであった。人は肉体や精神において弱さを持つもの。キリストはそのような人の弱さを受け止められる方として世にこられた。神と等しい方が人となられた。ご自分の身分、地位をぎりぎりのところまで低くされた。罪を除いて全く私共と同じ人間になられたことを示す。

 

 栄光という言葉は聖書において重要な言葉。旧約聖書においては栄光という言葉は石や貴金属の重さからきている。輝きと同じに恐れを生じさせるものがあった。モーセであっても神に近づくことはできないでいる。ヨハネはクリスマスの出来事を栄光と呼ぶ。宿屋の部屋もなく馬小屋で生まれた主イエスがなぜ栄光なのか。新約聖書においても栄光には輝きという意味は残っているが、神のみ子の誕生によって、この世界にぬくもりと温かみを生じるようになった。それは今までの栄光の概念を越えたもの。従来の栄光が意味する重さや輝き以上に喜びや讃美という意味が加わった。人々は恐れることなく小さい子どもでも、こぞって主イエスに近づいた。栄光という意味が豊かになり深められた。

栄光という表現は福音書の終わりの復活の顕現の場面においても出てくる。特に重要なのはゲッセマネの園での祈りにおいて栄光という表現が使われている点。(17:1)ここでは十字架の時が神の栄光をあらわす時という表現になっている。ヨハネにおいては主イエスが十字架にかかられることが神の栄光をあらわすことであった。神の救いのご計画は十字架にかかられることにおいて完成する。神の栄光とは救いのご計画そのもの。

 

 聖書は、「いまだかって、神を見た者はいない」と語る。キリスト教は神をこの目で見ることはできないと教える。目で見るものではない。朝日や夕日等美しい自然から神を感じることはできる。しかし神を直接見たという表現はしない。聖書は神を見ることではなく、示されるものと表現する。ユダヤ教は神の導きを律法を通して受けた。しかしキリスト教は律法よりも大事な『恵みと真理』がキリストからやってきたことを語る。ヨハネは旧約聖書に留まることや旧約聖書で完全とは語っていない。旧約聖書は新約聖書と結び付くことにより、キリストに至ることによって完成する。

 

                                   2023年12月 月報掲載 通巻223号