働きがいを求めて    牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書6章22~29節

「…いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6章27節)


 人々は小舟に乗って主イエスを追いかけている。彼らに対する主イエスの言葉「あなた方は“しるし”ではなく、パンを食べ

て満腹したからわたしを追ってきている」と手厳しい。ここはパンという言葉が繰り返し出てくる。人々には見栄やお体裁はない。単純明快。イエスはパンを否定しない。本当にお腹を空かしている人に対してイエスはパンを提供された。しかしここでイエスを追いかけてきた人は空腹な人ではない。彼らは満腹していながらもっとパンをくれと要求する。それは身体の要求ではなく、心の欲望。心が物欲に支配されている。世の中にはどこかに儲け話がないかとかぎまわり動き回っている人がいる。この人々は食べるものに事欠いている人ではない。そういう要求に対してイエスは、はっきりと拒絶された。

 

 キリスト教は人生の目的は何ですかを問う宗教。自分たちの動機が欲であることを見抜かれても彼らは素直にならず、正当化しようとして旧約の話を取り出した。モーセは荒野でイスラエルの民に天からのパンを食べさせたと反論した。それに対して主イエスはモーセが祈って与えられたパンは荒野の生活のためではなく、彼らを約束の地に至らせるためと応えられた。主イエスのパンも地上の食糧問題の解決のためではなく人を神に結びつけるため。パンの問題からもっとキリストに近づきキリストの心にまで入ってくれるように。

 

 人々は次に神の業とは何かを質問してきた。その問への答えは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業」。

 

 彼らのパンのみを求める姿勢からキリストに向かうように。下手な質問を拾い上げ、修正しながらより重要な問題へと向かわせる。それが「わたしが命のパンである」という宣言となり、「神のパンは天から降ってきて世に命を与えるもの」という言葉となった。神のわざとは神がつかわされた方を信じることへと導かれた。

 

 振り返ってみると教会にやって来た動機は人によって違うけれども、そこから始まって前に進んでいく。自分はキリストや教会の何に満足しているのかがいつも問われてくる。それは生涯の問いかけである。

 

 主イエスはさらに「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われた。

 

 これはこの世の生活の豊かさを求め、貯めこむだけではダメ。キリスト教への知識だけでもダメ。どういう姿勢が必要なのか。主イエスが五千人の人々にパンを与えられた話は、五つのパンと二匹の魚が増えていったという意味だけではない。各自が持っていた食べ物を、みんなが出し合っていった話でもある。それが神の業になっていく。一人ひとりの小さな行為が大きな奇跡となっていった。キリストを迎えること。キリストの心をもって生きること。世に何かを残すのではなく良く生きた生涯。人は自分の人生を生きねばならない。そこから互いに分かち合うことが生まれるならば素晴らしい

 

                                       2024年3月 月報掲載 通巻226号