恐れることはない 牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書6章16~21節

 

「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」 (6章20節)


 

 ある人々は主イエスを王にしようとした。群衆は主イエスを高く評価したが、それはパンを与えてくれるという一点における評価。あるいは男五千人が決起すればローマとも戦えると考えた熱狂的愛国主義者もいたかもしれない。彼らの熱狂ぶりが伝わってくる。しかしこれらは主イエスの願うところではない。その求めを拒むように主イエスは山に退かれた。ところが弟子たちは自分たちだけで向こう岸に舟で出かけようとした。彼らは自分勝手に行動を開始した。その結果、舟は岸から4、5キロ離れたところで嵐に遭い、弟子たちは困りきった。弟子たちは嵐の中で必死に舟をこいでいた。しかし埒があかない。彼らは何にもできないでいる。そのとき主イエスが海の上を歩いて近づいてこらてれた。ここは奇蹟ではなく弟子たちが主イエスに守られたことがポイント。弟子たちは辺りが暗いので、その方が主イエスだと気がつかなかった。恐れることしかできなかった。その時、暗闇の中から「わたしだ、恐れることはない」との声を聞いた。親しくなじんでいる声だった。どうにもならない困難の中で主イエスの声に聴き従った。

 

 キリスト教ではノアの箱舟以来、教会は船にたとえられる。教会は時代の風を受けて進んでいく、時には社会の荒波に揺れ動く。しかしキリストが共におられ導いてくださる。そしてキリストを中心としない教会の歩みは無残な結果を招くだけ。

 

 第二次世界大戦のときドイツはヒットラーに支配された。多くの教会もヒットラーに従った。それでもヒットラーに従わない教会が出てきた。戦時中の教会の抵抗について記したブルーダーは、その本に『嵐の中の教会』という題名をつけた。ドイツが大嵐の時、教会はキリストに導かれた。彼らは教会の主はヒットラーではなく、主イエス・キリストと告白し続けた。キリストの支えへの感謝と共に自分たちの悔い改めにも言及している。今日の聖書の個所と共通するところが多い。

 

 現代の状況は人々が傲慢になった結果のように思える。人間は何でもできるという過信ではなく、主なる神を敬うことこそが重要。主イエス・キリストのなされたように、宗教の違いをも超えてお互いを大切な存在と受けとめあうことこそが大事なこと。主イエスが「恐れるな」と言われた時、弟子たちの不安は消えていった。キリストがそこにいるだけで、私共は安心することができる。キリストを見失うと誰もが不安になる。迷子になった小さな子供が親に迎えに来てもらうと嬉しそうな顔をするように私どももキリストに見いだされて安心する。困難な問題を抱えているときこそキリストは近くにおられ、導きを実感することができる。心乱れているときこそ、キリストが必要。キリストを自分の中に、教会の中心に迎え入れてこそ嵐の中にあっても支えあい、スムーズに目的地に向かって進むことができる。

                                      2024年2月 月報掲載 通巻225号