我もまた働くなり  牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書5章10~18節

「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」 (5章17節)


 38年の間、ベテスダの池のそばに横たわっていた男の人。彼は巡礼者の施しによって細々と生きていた。人々は気の毒に思ってわずかな金銭を差し出すことはできても、彼の生き方を変えることはできなかった。主イエスは御自分の方から彼に近づいて彼を立ち上がらせ、歩けるようにしてくださった。そんな彼に向かって、当局は安息日に病気を癒したのは誰だと咎めだてをした。彼らは38年間、この男の人に対して何にもしないにもかかわらず、主イエスの働きに対しては文句をつける人々であった。彼らは根本的な間違いをしている。宗教は人を縛り付けるものではない。人を自由にし、人を生かすもの。男の人はおびえてしまったかのように見える。主イエスへの感謝の思いが、ユダヤ当局の妨害によって消えていきそうな状況となってしまった。

 

 その後、主イエスが男の人に宮の中で、出会われたとある。偶然に出会ったのではない。迷子になった羊を羊飼いが探し出すように主イエスが彼を探し当てた。主イエスは彼に語りかけ、励ましを与える必要を覚えられた。14節の「罪を犯してはいけない」との語りかけはいかなる意味か。けんかをする、盗みをするという事柄ではない。罪を犯すという言葉の意味は的をはずすこと。これは今までの生き方の延長ではなく、新しい生き方の勧めである。主イエスによって癒され恵みを与えられた時、嬉しいで終わってはならない。神の恵みを覚えたならば、神を賛美する生活が始まっていかなければならない。また神の御心を追い求めていく姿勢が求められる。聖書にはキリストによる癒しの記事が多くあるが、それは身体的なことと、新しく生きる者となるという精神的な面がある。

 

 男の人は新たなる出発ができただろうか。彼の行動を見ると結果的には主イエスを密告したような形になってしまった。彼はまだ古い自分の中にいるようであり、キリストを信じる者としての歩みになっていないようにも見える。主イエスは男の人が密告したことをなじるような言葉を発していない。ユダヤ当局との対決を決意された。主イエスとユダヤ当局との論争が始まっていく。主イエスは「わたしの父が今も働いておられるので、わたしも働くのである」と明確に宣言された。主イエスの働きかけは神の働きであった。ユダヤ当局から文句を言われようとも、悲しみの中にいる人を尋ね希望を失っている人々への語りかけは、神の業であるとの確信が語られた。

 

 主イエスは時には恩をあだで返されるような仕打ち、ユダヤ当局のねたみや憎しみを買っても続けられた。今日登場した男の人のその後の歩みは不明。だからといって実を結ばなかったと言うことはできない。後にキリストへの感謝や信仰復帰に至ることが多い。現代の子どもたちの教会の活動などもそういうもの。結果がすぐに出ないことに一喜一憂しないでいきたい

 

                                       2023年8月 月報掲載 通巻219号