命を与えるもの    牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書6章32~35節

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 (6章35節)

 


 

  主イエスは「わたしが命のパンである」と言われた。パンは当時も人々の主食。毎日の生活で欠かすことのできないもの。私共の肉体を支えるもの。ゆっくり、しっかり食べることが命を長く支える。病気の時こそ食べなければならない。食べることが生きることにつながる。キリスト教は食べること、生きることを大事にする。主イエスはご自身をそのパンにたとえられた。

 

 人々は毎日生きていくためのパンが保障されていれば幸いと考えていた。イエスのところにいけば何かもらえるという噂だった。御利益宗教の典型。主は彼らを否定しない。求めるところが的を外れていたとしても、自分のところに来る人を拒まなかった。しかしここで「わたしが命のパンである」と語られたときの命は生物的なものではない。特別な恩寵。キリストを信じることによって与えられるもの。ここにいたって本当の意味での宗教が明らかになる。「わたしが命のパンである」という言葉に接して真の宗教の世界が広がってくる。

 

 キリストの与えられるのは命のパン。喜びに溢れるパン。生きがいを感じるパン。私どもは仕事に追われ勉強に追われて命は干からびてしまいやすい。命の洗濯が必要。日曜日に主の前に出ていく必要がある。植村正久の娘への言葉に「お前は生きているか」。それに対しての答えは「生きている」。「どうしてわかる」。すると「動いている」と返事すると、「時計だって動いているぞ」という問答がなされる。信仰教育だった。人はただ食べて寝るだけでは生きていることにならない。いかに有能であって社会的業績を上げても生きていることにならない。病床にあり何もできないようであっても、あの人は生きているといわれるようでありたい。信仰とはキリストを遠くから眺めることではない。キリストをいただくこと。キリストを食べること。パンが体の中で活力となるようにキリストをいただいて生きる力を得ること。

 

 主イエスは我々に命をもたらされる。しかし世の中には悪しきパンもある。悪しきパンに気をつけねばならない。箴言には不正のパンを密かに食べるパンはうまい。しかし死の影がそこにあるのを知らない。怠惰のパン、欺き取ったパンもあると語っている。しめたと思うけれども、後には砂をかむことになる。世の中には様々な味のパンがある。見栄えの良いパンもある。それに対して主イエスは食パンみたいなもの。食パンは特別な味はついていないが生涯にわたって飽きが来ない。主イエスが与えられる命のパンは、私共を愛し十字架にまでかかられた方から与えられる。命のパンであるキリストをいただき養われていくものでありたい。

 

                                     2024年4月 月報掲載 通巻227号