命を受けて   牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書5章19~25節

「…わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得…。」 (5章24節)


  ここでのキーワードは「父と子」。聖書では神とイエスとは「父と子」の関係にあると語られている。人に命を与えるということで完全に一致している。そこが当時のユダヤの宗教指導者との大きな溝となった。主イエスの地上での働きは人々に命を与えるためのものだった。この世の人は主イエスからの命をしっかりと受け止めているだろうか。今日の個所は命という言葉と同時に死という言葉も多く出てくる。ここでの語りかけは今、生きている人に対してのもの。あなたは本当に生きているか。死んでいるのではないかとの呼びかけである。ヨハネにおいて重要なことは生きているとは心臓の動きとか呼吸ではない。惰性で生きていたり、生きる目的を知らなかったり、絶望してしまったならば本当に生きていることにならない。主イエスによって命を与えられるということは、心がほのぼのとさせられること。どんな時にも、いかなる状況にあっても希望を失うことがないということ。ヨハネは命、あるいは永遠の命という表現をよく用いるが、ヨハネにとって命と救いとは同じ意味を持つ。手術等で病気が治ったりすると生かされたという思いを持つ、そして心も優しく穏やかになる。それは良く生きること。

 

 5章の最初に38年の間病気で苦しんでいた男が登場する。主イエスはその人を癒された。ところが男の人はその後、ユダヤ当局のところに出かけ、こともあろうに主イエスを密告している。これでは彼に与えられた癒しは救いになっていかない。真実に命をいただいたことになっていない。これは信仰者への警告にもなっている。

 

 聖書の裁きとは気にくわない人を滅ぼすためではない。裁きは人々の恐れを引き起こすためではなかった。裁きは神を敬い、御子イエス・キリストを敬うためのもの。キリストの裁きは命を与えるためのもの。生きる喜びを与えられるもの。死んでから起こるのではない。

 

 中村草田男の句に「命はまろきものにぞありける裸児・嬰児」というのがある。これは孫の誕生を受けて病院に駆けつけ嬰児室を眺めていたときに出来た句。神様が与えてくださった永遠の命をあんまり抽象的に考えてはいけない。赤ちゃんを眺めたとき、あるいは赤ちゃんを腕に抱きかかえたときの感触が抽象的に永遠の命を考えるよりもよっぽど真理に近い。永遠の命とは固く冷たいものではなく柔らかく温かいもの。気がめいるものではなく心がうきうきするもの。ほのぼのとした思いに包まれ、元気を与えられるもの。命はまろやかでとげとげしくないもの。このような命を人々に与えるために、神はイエス・キリストを、お遣わしくださった。

                                        2023年9月 月報掲載 通巻220号