信じて帰ろう    牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書4章46~50節

「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」(4章50節)


 

 ここに登場する人はガリラヤ地方を治める王に仕えていた人。彼は沢山の僕を雇っている。何不自由のない生活に見えるけれども、家庭には病気の息子がいる。たとえお金があって使用人をたくさん雇っている役人であっても、息子の病気を治すことができなかった。主イエスがカナに来られたと聞いて、彼は30キロ以上離れた所から山を越えて足を運んでやってきた。主イエスに直接、息子の癒しを訴えたいため。それほど重要な願いだった。彼は到着して休む暇なく直ちに願いを訴えた。病気の息子は緊急を要していた。

 

 主イエスの応答は親切さのないそっけないもの。一日歩きづくめでやってきた者に対して、議論を吹きかけている。早く一緒に出かければよいのにと思う。聖書を読む人が誤解したり、イエス様に対して良い印象を与えないことが分かっていても、福音書はこの出来事をカモフラージュしないで率直に書き記している。普通ならば主イエスがこの役人と一緒に出かけていき、息子に手を置いて癒されるということになる。これならばすこぶるキリストの優しさが分かりやすい。しかしここではそうしなかった。役人の願いに対する主イエスの応えは意地悪な感じさえする。今は議論するときではないだろうと、じれったくなる。私どもの議論はややもすると、屁理屈、揚げ足取り、袋小路から抜け出せなくなる不毛な議論が多い。それに対して、ここに登場する役人は議論をしないで自分の願いをストレートに繰り返している。自分の子どもが病気のとき、親は議論どころではない。何をしてほしいかを訴えるだけ。そういう素直さに応じるかのように、主イエスは応えられた。

 

 一連の会話は意味がなかったのかというとそうではない。役人は自分の求めを鮮明にすることができた。主イエスの「子どもは生きる」という言葉が引き出された。キリストの働きは時を超え、場所を越えて実現することが明らかになった。「息子は生きる」と言われた主イエスの言葉への信仰を呼び起こした。主イエスのしるしや不思議な業が目の前で起こらなくても信じる尊さを語っている。

 

 主イエスは役人の息子が癒された出来事を第2のしるしと呼んでいる。第1のしるしは水をぶどう酒に変えられた出来事を見て信じた。第2のしるしでは癒しの業を見ないで信じること。信仰の意義が深められている。

 

 多くの人はしるしを見て初めて主イエスを信じるようになった。それに対してここでは、「あなたの息子は生きる」と言われた主イエスの言葉を信じて家に帰った。それは見て信じる以上のこと。この箇所の会話は役人に対して、「見ずして信じること」の尊さを教えてくれている。その言葉を信じられたのは、主イエスのまなざしを心に刻むことができたから。共にいてくださるというぬくもりを感じていたから。

私どもはキリストの歩まれた時と場所を遠く離れて生活している。しかしキリストは昔の人ではない。今も救いの働きを進めておられる。辛いことが起こったとしても主は共にいます。思うように行かなくても主イエスを信じて歩んでいきたい。

 

                                      2023年6月 月報掲載 通巻217号