パンを取り感謝して  牧師 澤﨑弘美

ヨハネによる福音書6章1~15節

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから…人々に分け与えられた。」 (6章11節)

 


「人はパンだけで生きるものではない」という聖書のメッセージは生きる基本です。しかし同時に主イエスは大勢の人々が空腹であることを気にかけられた。今日世界では貧富の格差が広がっている。世界の貧しい人々が安全で豊かな国を目指して移っていくのは当然。アンパンマンの生みの親、やなせたかしさんは平和とは全世界の人が食べる物があることと定義された。そこから生まれたのがアンパンマン。

 

 主イエスは大勢の人々の飢えを心配された。今日の箇所でもフィリポに対して「この人たちに食べさせるにはどこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられた。

 

 この問いかけは現代における私どもに向けられている。フィリポは戸惑って「…200デナリオン分のパンでは足らないでしょう」と返事をした。1デナリは一日分の日当。200デナリは200日分にあたる。決して少ない額ではない。しかしそれでも足りない人々が主イエスの周りにはいた。フィリポの意見は何もできないという意見。何もできないということはゼロと言っていること。そこには発展性はない。何らかの可能性をも否定してしまっている。私どもも問題にぶつかって、すぐにこれは無理だと判断しやすい。もう一人の弟子のアンデレは、大麦のパン5つと、魚2匹持った少年を見いだした。その場に少年がいたということは自分の食料を隠そうとしたのではなく、主イエスに捧げようとしていたに違いない。いやならばその場から逃げ出していただろう。アンデレはそれでは何の役にも立たないといっている。決して模範解答ではない。しかしアンデレはフィリポと違ってわたしに何ができるかを考えた。そして食べ物があるだろうか周りを探し始めた。自分たちの持っているものを、喜んでキリストに差し出そうとした。人と比較をして劣等感や優越感に浸るのでなくひたすら捧げようとしている。

 

 主イエスは捧げられた大麦のパン5つと、魚2匹を神に感謝しました。自分たちには何もないというのではなく、今ある物を感謝された。決してゼロではない。大きな課題も、捧げられた大麦のパン5つと魚2匹への感謝から始まる。

 

 今日の箇所は主が5千人の人々に食べ物を与えられた奇跡物語。この時の場面は5つのパンと2匹の魚をもらおうとして人々が押し寄せてきて騒然としたのではない。奪い合いが起こったのではない。人々は座って自分のところに回ってくるパンと魚を喜びをもって待っている。分かち合うことは嬉しいこと。そして人々は十分に食べた。彼らは満足している。彼らはキリストに導かれ、キリストからパンと魚を戴いて心から満足した。ここは神の国のイメージ。聖書はそれを神の国のしるしと言っている。世の中には沢山の物を持っていても少しも満足しない人もいる。物を持っていても持っていないかのように欲望の虜になっている人もいる。キリストに導かれキリストに養われたとき、人は心の底から満足することができる。

 

                                      2024年1月 月報掲載 通巻224号